いわにし日記

「いわにし」の取るに足らない日常や思いつき

あの日の祖母より歳を重ねたが、どういうわけだか未だに母だ

僕が生まれたとき、祖母は50代前半だった。

 

母は30くらいだろうか? もうちょい上だろうか?

詳しい追及はしない。それができる程度には大人になった。

 

女性にとっての年齢というのは曖昧にしておくべきもの。家庭内での夫との家事の分担とはわけが違うのだ。

気合を入れている日のアイラインとも違う。 年齢の線は曖昧に、朧げに。

 

でも誕生日は絶対に祝ってもらうもので、その時でも年齢ははっきりさせない不文律。

 

50代前半だった祖母は当時から祖母だった。80を目の前にして、祖母は祖母として生きている。

母だったことはないし、父だったこともないし、死んだじいちゃんだったこともない。

 

僕の記憶の中の祖母は、50代の頃も80手前の今も祖母だ。

つまり、ずっと「ばあさん」の状態にある。

 

僕の感覚の中では、ばあさんだった女性が、よりばあさんらしく歳を重ねていっただけなのだ。

 

母は歳を重ねた。 30から60へと確かに歳を重ねた。 歳をとった、の言い方は怒られるんじゃないかというフィルターの働き。

 

母は母のままだが、しっかりとおばさんになった。

 

年齢的にはお婆さんに分類されるかもしれない。しかし、おばあさんと呼ぶには身内として抵抗がある。

若者に席を譲られる姿を見てしまったら、母よりも僕の方がショックを受けてしまいそうだ。

 

母、と思っているのだろう。60歳だとしてもこの人は母なのだ、という感覚。

同じくらいの年齢の女性が席を譲られているのを目撃しても何かを思うことはない。

それが男性であっても。バリッバリに糊の利いたスーツを着こなしている現役感溢れる男性であったとしても。

 

だけど、月に何度かのゴルフくらいしか運動をしない父が、席を譲られていたら僕はショックを受けてしまう。

気にすんなよ、って言ってあげるのが僕ではなく、父になる。

 

前提条件によって僕は世界を見ているのだと思う。先入観って言葉の方が正しい?

 

父、と思ってみているから未だにお爺さんには見えていないし、席を譲ろうとも思わない。

母、と思って見ているから未だにお婆さんには見えていない。

 

祖母、と思って見ているから若き日も、年老いた今も、お婆さんにしか見えない。

 

街で偶然見かけたおじさんが、トヨタ自動車の社長に見えるだろうか?

敬意を払うことが出来るだろうか?

 

トヨタ自動車の社長だとわかったとして、必要な敬意を払えたとして、その必要量って普通のおじさんに対するものと違うのだろうか?

なんで?

 

トヨタ自動車の社長だとわからなかったとして、普通のおじさんに対する敬意の量では足りないのだろうか?

なんで?

 

前提が変わると見え方が変わる。

当たり前のことだけど。 でも、自分が見ている世界がどんな前提でそう見えているかについて、あまり意識をしていない。

 

僕の母は、他人から見たら席を譲らなくてはいけないくらいよぼよぼかもしれない。自分とは違う前提で世界を見ている人にはそう見えているかもしれない。

 

たぶん、この感覚を意識したら、色々なことに対して仕方がないかってやり過ごす事が出来るようになる。難しいけど。

 

自分の位置からはそう見えているだけなのだ。自分の前提からはそう見えているだけなのだ。

 

自分の正しさに自信を持ちすぎてしまうのは、この感覚の欠如だろう。