先程まで指先に灯っていた明かりが消えた。小さな魔法を使える人が街には溢れている。
よくすれ違うおじさんがいる。駅に続く直線道路の途中ですれ違う。駅に向かう僕と駅の方からやって来るおじさん。
おじさんはいつも歩きタバコをしている。
一口を大きく吸って、腕を下げる。腕を下げる時の遠心力だか空気抵抗だか、そういう力を使って灰を落とす。
ピカピカに磨かれた革靴を履き、仕立てのいいスーツを着こなし(量販店で購入した一応のスーツではなさそう)、胸を張って堂々と歩いている。
どう見ても出世している。万年平社員の窓際族でこの仕上がりはありえない。辻と妻が出会うには部長以上の役職でなければならない。そうでなければ、あの日の二人が出会うのは理論上でも不可能なこと。
このおじさんの社会的地位が高いことを想像すると同時に、自分が人を見た目で判断していること、比較の中で得られる優位性に幸せがあると考えていることが見えてきて嫌になる。
人を見た目で判断するのは普通だし、あいつより自分の方がいい状態にあるとわかって気持ちが良くなることも普通だ。だけど、あまりにもそこから逃れられていないことにはうんざりする。
比較して幸せを感じるだけならまだしも、勝手に比較して勝手に不幸を感じるなんて…。
他人事だと思えば本当に無駄なことだと思えるのに、自分のこととなるとどうしても発動してしまう。このセルフ不幸マネジメントは本当に厄介なものだ。
姿勢、着こなし、溢れ出る自信。煙は吹き上がり灰は舞い散る。気温が下がり日没が早くなった。
暗闇に紛れタバコ自体が見えなくなっても、指先に灯った明かりがその存在を教えてくれる。
今はそんな季節(夕方に出勤する僕にとっては)。
腕を上げ、タバコを大きく一口吸う。指先に灯る明かりが一瞬大きくなる。灰を落とすために下げた腕を追従する指先。さらに追従するタバコと明かり。
上下に動き、時に大きさを変えていた指先の明かりが次の瞬間には消えてなくなる。
え?お?あ?
何がどうなって消えたのかちっともわからない。さっきまでは確かにそこにあったものが、今はどこにも見当たらない。気配すら残していない。
距離が近づきすれ違う。指先にはやはりタバコはない。しかし香水とタバコの混じった匂いが鼻をつく。携帯灰皿は持っていないし、コートのポケットに直接インした様子もない。
おじさんはやはり小さな魔法を使っていた。インの代わりにポイをしたのだ。
明かりが消えたその場所に、おじさんの進行方向とは反対に明かりを灯したままのタバコが落ちていた。
歩きタバコくらいまあいいじゃん。ポイ捨てくらいまあいいじゃん。灰皿がないんだから仕方がないじゃん。
歩きタバコをする人にとって、(歩きタバコは)されて嫌なことではないからなくならない。されて嫌ではないからすることに抵抗がない。
制限速度が50キロの道路をみんなが60キロで走っていた時、自分も60キロで走ってしまう?制限速度が50キロだから50キロを超えないように走る?
歩きタバコってものが害害害害害って感じだからものすごく抵抗感を持つことができるけれど、この道路を60キロで走られても別に嫌じゃない、と当人の中で働いているものはきっと同じ。
されても平気なものは、大抵するのも平気。
タバコを吸わない僕にとっては(匂いも煙も嫌い)、それくらい許してよ、の出来事ではない。部屋の真ん中でくさやを焼かれるような気分。
六畳一間だぞ!あらゆるものにくさや臭がついてしまうじゃないか(換気扇はコンロの上にしかついていないのだ)!
だけど同じ歩きタバコでも、加熱式たばこ(アイコスとかグローとか)だとそこまで不快ではないのが不思議。
(副流煙は出ていないけれど、吐き出されたエアロゾル(霧、ミスト)の中にはニコチンなどの有害物質が含まれているという。)
僕にとって、タバコを嫌う理由の大部分を煙と臭いが占めているのだろう。
しかも副流煙で健康被害まで…ちょっと、あんた!
歩きながらちゅーちゅーと加熱式たばこを吸っている人を見る機会が増えた(大きな手の人が200ミリの紙パックの野菜ジュースを飲んでいる時のサイズ感に似ている。だから、ちゅーちゅー)。
ちゅーちゅー吸ってスマホ見て、またちゅーちゅー吸ってスマホ見る。
ちゅーちゅー、ちゅーちゅー、ちゅーちゅー。
形容する語感とは裏腹に、行為としてはちっとも可愛くない。
ちゅーちゅー、ちゅーちゅー、ちゅーちゅー。
さっきすれ違った小太りのおじさんの手の中にはクーリッシュ。
ちゅーちゅー、ちゅーちゅー、ちゅーちゅー。クーリッシュをちゅーちゅー。
寒くなってきたからね、お腹冷やさないように気をつけて!
ものすごく可愛く見えた。
小太りで、ちっとも可愛くない見た目のおじさんが、ものすごく可愛く見えた。
小太りのおじさんに使われたのだろうか?
僕はかけられてしまったのだろうか?
指先の明かりを消すよりも大きな魔法を。