いわにし日記

「いわにし」の取るに足らない日常や思いつき

ナイアルヨー

餃子はセーフ、を後ろ盾に今日も駅前の中華料理屋で深夜飯。

親父が県議会議員だから、を後ろ盾に今日も昼はゲームセンター、夜はクラブに入り浸るどら息子(好き勝手やっても全部なかったことにできるイメージあるけど、実際はどれくらいもみ消せるんだろう。知らずに補導した新米警察官が上司に「〇〇さんのところの御子息だぞ」って注意を受けて、むしろマイナス査定になるところまでイメージ広がるけど、実際どうなんだろう)。

私の後ろ盾の弱さたるや。なんだ、餃子はセーフって。何が何を担保しているんだ!

 

生活が夜型だから、一般的には深夜飯だけど僕にとってはただの晩飯。なんなら早めの夕飯。

晩まで行かない、夕の名残があるくらい。寝るまでの時間がまだたっぷりと残されている。

 

注文をして、料理の提供を受ける。今週2回目の餃子。ご注文は以上でお揃いですか?の一言とともに伝票を渡される。

 

いつも通り、酢・醤油・ラー油を適当に小皿に入れてタレを作る。たぶん拘ったらすごく美味しくなるんだろうな、と思いながらいつも適当。適当に作っても美味しいから拘る事に必要性が生じていない。

 

適当にやっても美味しいと感じるのは、偶然の黄金比率で毎回作れているのか、僕の舌が低解像度だからなのか。

後者だとしたら(十中八九こっちだけど)僕の舌が悪いのだが、だとしてそれが悪いのかと考えると、そうでもない。

 

美味しいものを食べたくて(自分のために作りたい飯なんかなくて。自炊が面倒で、ってのもあるけど)飯屋に来て、美味しく食べられているのだから何も問題はない。むしろ恵まれているのかもしれない、とすら思う。

 

絶対音感の人は、他人のカラオケがちょっとでも外れていると気持ち悪さを感じてしまう。潔癖症の人は除菌してからでないと触れないものが多い。

味覚の鋭い人は、こんなまずい飯食えるか!と卓袱台をひっくり返す回数が平均的な味覚の人の3倍で(そんなデータがあるとすれば)、離婚率は5.8倍(相手の気持ちには鈍感ってこと?)。

 

「ない」ことに不幸を感じる場面はとても多いが、「ある」ということが幸せに直結しているわけではないのだな、としみじみ。

鋭さがない味覚のおかげで、適当に配合したタレで美味しく餃子を食べられている。

 

ついに、鈍い舌でも美味しく食べられない時が訪れてしまった。離れた席のサラリーマンの一言によって飯が不味くなった。

 

おい、早く持ってこいよ。

 

呼び止める「おい」も要望の「早く持ってこいよ」も人に何かを頼む態度からは程遠い。

 

もちろん、店員はサボっていなかった。オーダー順で調理と提供はされていたはずだ。

僕への料理の提供は、僕より先に注文をした人の後であり、僕の後に注文をした人より先だった。

まだそいつの順番になっていないから提供されていないだけのこと。

 

注文しただけの奴がなんでこんなに偉そうなんだろうな、と思った。食券の店だとしてもありえないけど、食後に会計する店でこの態度はもっとありえない。

だって、注文しただけだよ。勝手に店に来て、〇〇作ってくれよ、って言っただけの人。

 

そこまで思ってふと気がつく。

 

お店の人はなんで僕に餃子を焼いてくれたのだろう?

 

あのサラリーマンとは態度が違うとはいえ(自己評価は甘くなる傾向にある)、どうして餃子を焼いてくれたのだろう。僕だって勝手に店に来て、餃子焼いてくれよ、って言っただけの人だ。

 

注文だけして帰るかもしれない。食い逃げをするかもしれない。ちょっと疑いの目を向けてみれば無銭飲食の常習犯に見えなくもない(なんだと、このやろー)。

 

金を払うのかどうかわからないし、払う金を持っているのかどうかもわからない。僕は僕で、金を払うことを表明していないし、払う金があることを明らかにしていない。

それなのに、注文を受けた店員は、僕の支払いの意思と所持金の有無を確認することなく調理を始めた。

 

店のシステムは、僕に支払いの意思があること、支払うお金があることを前提としている。僕を信用して調理を始めた、とも言える。

信用と引き換えに調理を始めた。

 

お金と引き換えに料理が提供される。

信用と引き換えに(支払いより先に)調理を始める。

 

あのサラリーマンに調理と引き換えるだけの信用があっただろうか?

中華鍋で殴られる(そうなったとしても仕方がない)ことと引き換えるだけの思いやりのなさはあったが。