いわにし日記

「いわにし」の取るに足らない日常や思いつき

「この」いわにしさんは顔馴染まない。

「ごめんなさいね、テレビで今すごく感動するのやってて泣いちゃったのよ。」

店の奥から出てきたお婆さんは目を真っ赤にしていた。

 

背伸びして買った冬物のコートをクリーニング店に持ち込んだのはゴールデンウィークに突入する前のこと。なんとなく、連休明けに持っていくと自分の見た目と相まって「いかにも」ズボラな人間だと思われそうで嫌だった。

コートを持って店に行くと、仕上がりまでの時間を長く見てもらえるかどうかを最初に聞かれた。今年のゴールデンウィークはものすごく長いので(11連休だったっけ?)、例年以上に冬物の持ち込みのタイミングが重なっているらしい。

いつでもいいですよ、と僕は答えた。冬物のコートなので半年以上は着るときがない。それに仕上がりが遅いということは、裏を返せば長い期間預かってもらえるということだ。僕にとって悪い話ではない。

仕上がりは1ヶ月後、5月の末日ということで話がまとまった。

 

強い日差しの中、店を目指した。昼間の外出は久しぶりだ。

すれ違う人と比べて自分の肌の白さと来たら…。日焼け対策の成果でないだけになんだか恥ずかしい。

 

店の中には誰もいなかった。すみません、と声をかけると奥から目を真っ赤にしたお婆さんが出てきた。テレビで感動する番組を見ていたらしい。

受け取りにきたことを伝え、申し込みしたときの控えの紙を渡した。

 

「えーと、コートよね…えーとえーと、えー…」

僕のコートが見つからない。

「んー…あら?いわにしさんって、あのいわにしさんよね。んー、ちょっと待っててもらえます?」

お婆さんは店の奥に消えていった。

たぶん僕じゃないですよ、と思った。

 

僕の顔に見覚えないでしょ?

「あの」ってことはある程度馴染みがあるはずでしょ?

交番に貼ってあるこの顔にピンときたら…で見覚えがあるんだったらごめんなさい。お願いです、通報だけは勘弁してください。

まだ捕まりたくはないんです。ハンターハンターの連載が終了するのを見届けるまで待ってください(なかなかの罪だとしても、出所→社会復帰を経ても尚連載は終わってないだろうけど)。

 

「ごめんなさい、急ぎでなければあと1週間くらいもらえるかしら。」

顔馴染みでない方のいわにしさんのコートはまだ手付かずのままだった。

全く急ぎでないので「冬まで着るときないんで全然大丈夫ですよ。」と伝えた。

「そう?お言葉に甘えちゃっていいかしら?そしたら1ヶ月くらい貰っちゃっても大丈夫?」

「大丈夫ですよ。全然気にしないでください。」

 

1ヶ月くらい貰ってもいい?この言葉に対して僕は「6月いっぱい」をイメージした(6月5日)。勝手に「6月中に仕上げるから」というニュアンスで受け取っていた。

 

「えーと、今日は何日だっけ?」

お婆さんの言葉を聞いて、ん???なんか違うぞ?と感じた。今日が何日かを確認するってことは、月末ではないのかも。「今日からきっちり30日」ってことかもしれない、と認識を改める。

「じゃあ、7月10日なんてどうかしら?」

多めに貰われた!

 

やりとりのなかで僕をチョロい客と判断したお婆さんはふっかけてきたのだ。

おいおいおいおい…。

お宅が忙しいことは理解していますよ。だから文句は言わないです。

でも、私がお願いしたのは1ヶ月前の話ですし、仕上がり日を決めたのはお宅ですよ。そこからさらに1ヶ月以上待ってくれ、って…いいですか、コート1着ですよ。仕上がりまで2ヶ月半ってどういうつもりですか?

おい、ババァ、この紙に早く新しい引き渡し予定日を記入しやがれ。

 

全然書いてくれないんだもの。控えの紙に新しい引き渡し予定日を全然書いてくれくれないんだもの。

不安だった…。

安心できなかった…。

私が責任持って仕上げるからね、とかいいから。その責任を使って早く新しい引き渡し日を書いてくれよ。

口約束だけじゃ安心できないからさ、頼むよ。

連絡ミスが怖いんですよ。

お婆さん、部屋に戻ってテレビの続き見始めたら絶対忘れちゃうじゃんか。

7月10日に受け取りに行ったときに「40日間受け取りに来なかった迷惑客」として扱われるのが怖いんだよ。お婆さんが接客を担当してくれる保証はないし、お婆さんが覚えてくれている保証もないし。

だって「あの」いわにしさんと顔馴染みでない「この」いわにしさんがごっちゃになっているわけだし。

 

僕は一切抵抗することなく提案を受け入れた。お婆さんは色々と世間話をした後に新しい引き渡し日を記入してくれた。

仕上がりが7月1日でも7月10日でも、どうせ向こう3ヶ月は用がない。なんなら次に受け取りに言ったときもまだ手付かずで、ちゃんと預かっておくから秋まで待ってもらえる?と提案されたい。

どうせならそこまで見縊ってもらいたいものだ。