いわにし日記

「いわにし」の取るに足らない日常や思いつき

この道に出たかった。

サラリーマンなんか全員死ねばいい。

少しでも楽しそうにしている奴は全員死ねばいい。

 

大学を卒業してから2年くらいは本気でそう思っていた。

 

バイト先は、仕事帰りのサラリーマンが立ち寄るのにちょうどいい位置にあった。僕が出勤する時間の主要顧客であり、当時の僕にとってのストレスの元凶だった。

 

スーツを着た人が入店してくるだけでイライラ。少しでも楽しそうな表情を見せたらイライラ。もちろん横柄な態度をとられてもイライラ。

 

ずっとイライラとしていた。店に来ただけでイライラとしていた。

バイト中の自分の目の前にその人たちがいるというだけで、爆発しそうなくらいのストレスを感じていた。

 

フリーターになった年の年末、僕は日記を書き始めた(色々と理由はあるのだが、ここでは割愛)。日々の出来事や、日々感じたこと(主に苛立ち)をノートに書くことにした。

たしか初日に書いたのは、新木場で藍坊主の年末ワンマンライブに参加した、ということだった。もちろん、参加する私もワンマン。

 

日記は自分を救ってくれた(結果的に。思いがけない素敵な副作用)。悩みを聞いてくれる友人を得たというか、スーパーで色々買いすぎた時に買い物袋を一つお願いできる同伴者を得たというか。

大根と牛乳とお米が入った(一番)重い袋をお願い(押し付けられる)できる相手、それがノートだった。

 

誰かに悩みを相談するということは、誰かに共有してもらうということ。重い荷物を押し付けるということ。

自分一人では抱えきれなくなった荷物を誰かに預けて身軽になること。

 

悩んでることあったら俺に言って。なんでも相談に乗るからさ。

日記を書くようになってから、こんなセリフは口が裂けても言えないな、と思うようになった(言う相手はいないけど)。

 

一緒に持つなんて、そんなのは結果として全体でそうなるだけのことであって、引き受けるのは本人が抱えきれない分。それを自分が代わりに持つという、ただそれだけのことである。

 

ノートの存在はありがたかった。

押し付けても罪悪感を抱かなくて済むし、いつ押し付けても代わりに持ってくれる。

抱えきれない分どころか、抱えていたくない分全てを預けることができた。

 

サラリーマンが入店してきたこと、注文時の店員に対する態度、会計時のお金の出し方、お釣りのもらい方。

存在そのものから細かな所作に至るまで、ありとあらゆるものにストレスを感じていた。それら全てをノートに書いていた。

彼らの何がどうムカつくのかをしつこく書き続けていた。

 

なれなかった自分となれた彼ら。ブラックだろうがホワイトだろうが、背広を着て働く彼らはなれた側の人間だった。

 

なれなかった側となれた側は全然違う。なれた側にだって悩みや不安はあるだろう。その事は否定しないし、そっちはそっちで大変だろうな、と想像は出来る。

だけど、なれなかった側から見れば、常に彼らはなれた側なのだ。

 

金持ちが財布を落として焦っているのを見ても、心から寄り添えない。100万落としたって、どうせ家帰れば1000万あるんでしょ?

 

美男美女が失恋して落ち込んでいるのを見てもそれほど同情することができない。Aと別れたんならBと付き合えばいいじゃん。二人で食事に行ったり遊びに行ったりしているんでしょ?

 

結局あんたはサラリーマンになれてるじゃん。正社員として働いてんじゃん。

フリーターのことを馬鹿にしてんだろ?横柄な態度を取るのはそういうことだろ?

 

なれなかった側の自分を通してあらゆるものを捻じ曲げて、嫌って嫌って嫌って憎む。たまに本当にフリーターを馬鹿にして見下した態度を取る人もいたけれど、それ以外はほとんど全てがただの被害妄想。

でも当時の自分にとっては全てが事実だった。事実以外の何物にも感じられなかったのだ。

 

日記を書くようになって1年が経った頃(フリーターになって丸々2年)、不意に景色が変わった。

何度も何度もループしたいつもの道から抜け出して、心のどこかではずっと出たいと思っていた道へと出た。

 

この道に出ることをずっとずっと願っていたと気づく。

出るまでは全く意識していなかったけれど、出て初めて意識をしてきたことに気がついたけれど、間違いなく僕はこの道に出ることをずっとずっと願っていた。

しつこくしつこく自分の苛立ちについて書いてきたのはこの時のためだった。間違いなくこの時のためだった。

 

僕は自分を肯定したかったのだ。肯定したいのに、肯定する材料が手元になくて悩んでいたのだ。

 

大学を出て、フリーターになった。親の金で私大に通わせてもらっておいて、4年経ったらフリーター。

正社員になることができず、学生のアルバイトと同じ仕事をしている。学生でも出来ることを学生の身分ではなくなった自分がやっている。ほとんど変わらない時給で、生活をするために。

 

人並みになれなかった。

人並みにすらなれなかった。

 

当時の僕を支配していたのは、どうやらこの感情だった。他人との比較の中で自分を肯定しようとしていたから、どうやってもそれが出来ずに苛立っていた。

 

だから否定したのだ。

なれたサラリーマンを否定して憎むことで、少しでも下げようとしていた。自分と大差のない奴らだと思い込もうとしていた。

 

苛立ちの原因がわかったところで何も解決はしない。苛立ちは無くならないし、自分を肯定する方法もわからない。

 

自分を肯定したい。だけど比較の中では肯定する材料が手元には何もない。

わかったのはこれだけだ。何度も何度もループしたいつもの道を抜け出して、出ることを願っていた道へと出ただけだ。

 

この道がどこへと続いているのかわからないし、どこへ行きたいのかも歩き続けたいのかもわからない。

 

でもいい。今はそれでいい。

苛立ちの原因がわかったのだから(何も解決はしていないけれど)。サラリーマン全員に対して死ねばいいと思わなくて良くなったのだから。全てを否定する必要はないのだから。自分を肯定すればいいだけなのだから。

 

ムカつく奴に対してだけ思えばいいのだ。

勤め先が倒産しますように。他の会社では一切役に立たない筋肉を鍛え続けていたことを転職活動の時の突きつけられますように、と。

 

性根の悪さだけは(もしかしたら)肯定しなくてもいいのかもしれない(万に一つの可能性)。これについては、要検討だ。