いわにし日記

「いわにし」の取るに足らない日常や思いつき

助手席はアラサーの息子

蕎麦を食べ、墓参りをして、父の実家に向かう。この2〜3年はこれが帰省時の定番のルートだ。

 

お墓の側の道路でスピード違反の取り締まりが行われていること(法定速度を守っている人がいるわけがない、見晴らしのいい直線道路なのだ)。

何もない通りにあるハンバーガー屋が繁盛していること(一度だけ食べに行ったが、繁盛していることに納得がいく美味しさだった)。

これらは父と車内で話すことの定番になった。

 

父の実家に向かう道中、大学を卒業して3年4年くらいは、寝てていいよ、といつも言われた。何を喋ったらいいのかわからず、気まずさに押しつぶされそうになっていたのは僕だけではなかったのだろう。

 

最近は寝ることを促されなくなった。

特に話すことがないのは相変わらずだが、父と僕との間にある緊張のようなものが和らいだ感じがしている。

お互いに無理をしなくなったというか、喋るのも喋らないのも、自然な力のかかり方になってきたというか。

 

好きなものを頼んでいいよ、と言う。

子供の頃は、ファミレスでサイドメニューのポテトを頼むことも、許さなかった父が。誕生日の時以外は一切のメロンクリームソーダの注文を許さなかったあの父が。

 

高校生、大学生の頃ならば、天ぷら蕎麦を注文していただろう。しかも値段が高い方の、海老天が2つ入っている方の天ぷら蕎麦を。

しかし、今は違う。鴨南蛮蕎麦だ。

 

学生時代のように、天ぷら蕎麦をどうしても食べたい、というわけではない。値段が高い、ってのもある。そこは否定しない。

 

鴨南蛮蕎麦を注文するのは単純に美味しいし、気兼ねなく食べられるから。

加えて、父の奢りだから。運転をするのが父だから。

 

色々な気持ちの上でベストなバランスなのが鴨南蛮蕎麦。

 

父の実家に向かう道中、すれ違う車を眺めていて、わぁ…って思う。もうそういう年齢なんだろうな、普通はそういう役割りを担っている頃なんだろうな、と。

ハンドルを握る人間と、助手席でゆったりとくつろぐ人間は、もう入れ替わっている年齢なんだろうな。本当はそうあるべきなんだろう。

 

還暦を過ぎた父親がハンドルを握り、28歳の息子が助手席でくつろいでいるのだ。鴨南蛮を食べてお腹いっぱいになって、助手席で目を閉じたりなんかしちゃって。

 

子供に美味しいご飯をお腹いっぱいに食べさせてあげたい気持ちっていうのは、今も変わらずですか?

あなたに追いつけ追い越せの勢いで禿げを進行させている息子に対してもあの時のような気持ちのままですか?

 

僕と出掛ける時には食事をご馳走する立場、車の運転をする立場に父がいる。

兄や弟はどうしているのだろう。食事の支払いや車の運転をしているのはどちらなのだろう。

 

すれ違う車を見ていると、自分は年齢なりの普通になり損ねたのだなと思う。それが良いのか悪いのかはわからないけれど、年齢なりの普通というのが親を安心させる指標の一つになるのは間違いない。

 

僕が運転するよりも父が運転した方が安全だ。僕よりも父の方が経済的に余裕がある。でも、そういうことではない。

 

父を助手席に乗せてあげたいとか、父に食事を奢ってあげたいとかを普段は思わない。

ただ、するかどうかは別として、してあげたいかどうかは別として、それができる立場にいないことは申し訳なく思う。年齢なりの普通になり損ねたことを帰省のたびに突きつけられる。

 

周りはどうとか、普通はどうとか、そういうのって関係ある。自分の人生だし、親は親で子は子だけど、あんたには関係ないだろ、とは思えない。

積極的に孝行する気も恩返しする気もない。だけど、自分を幸せにするために生きていく中で、親が安心しているパターンと安心していないパターンがあるとしたら、前者を選ぶ。

 

この先も自分を幸せにするためにあれこれしながら生きていくのだろう。それはきっと変わらない。だけど、パターンは変えていきたい。

親が安心しているパターンになんとか、そのうち。